このリングに関する事をご存じの方に情報提供を求めます
日本最初のチャンピオンリングか??
毎日オリオンズ1950年日本ワールドシリーズチャンピオンリング
2024年7月15日作成
1950年、日本ワールドシリーズ(当時名称)に優勝した毎日オリオンズの主力選手:片岡博國氏の遺族の方が遺品整理中に発見したもの。遺族の方も、このリングの製作経緯等をご存じなく、弊社に鑑定を依頼されました。
ご遺族の持っていらっしゃる情報、そして弊社の鑑定・分析結果以外に、第3者の方からの本品の製作経緯等の情報があれば、本品は公式に「日本最古のチャンピオンリング」となります。
ご遺族の希望で本品を公開し、第3者からの情報提供を求めたいという事です。
BEFORE:ご遺品から見つかった状態(メンテナンス前)
古い時代のハワイでハワイアンジュエリーなどのアクセサリーを入れていた南洋真珠を模したリングケースに入っていました。ケースを一目見て、「ハワイで作ったのかな?」と思いました。
当時の毎日オリオンズのロゴにM.O(Mainichi Orions)のイニシャル。裏面には手彫りで「1950年 日本ワールドシリーズ優勝 H.K」の打刻。
10K=10金の品位表示。含まれる銅成分の変色と緑青(ろくしょう:銅に着くカビ)が付着している。
指サイズは21号。重量は7.6g。もしこの素材がシルバーか真鍮であれば、体積からすると5-6gなので比重の高い金合金(10金)であると思われる。
AFTER : 弊社でメンテナンス後
文字は、「毛彫りタガネ」(三角刀)で彫ったものです。
素材について
ご遺族からリングをお預かりし、弊社でリファイン作業を行いました。まず、希硫酸に浸漬し、表面のカビや硫化膜などを除去し、超音波洗浄とスチーム洗浄を行いました。その後、「磨き痩せ」しないよう細心の注意を払って軽く研磨を行ったものです。
10金は、20世紀(2000年以前)と2000年以降で標準的な配合が異なります。以前の配合は、金Ag42%以外の大部分を銅Cuで割金しており、赤っぽい黄色が特徴的です。そして、手入れせず時間が経つと、銅成分が茶色に変色してきて、且つ緑青が付着するものです。
(※現在の10金の配合:Ag42%+Cu29%+銀Ag29% 赤みが無く、淡い金色です)
このリングのBefore/Afterを見ると、真鍮製ではなく間違いなく古典的な10金であると確信出来ます。もし真鍮であれば、リファイン後の地金はこのような色ではなく、より銅に近い色だからです。以下は真鍮製の蛇口と五円玉。
デザインについて
チャンピオンリングは、大振りで小粒ストーン多数の豪華なリングと認識されている方には、このリングをチャンピオンリングとするのは違和感があるかもしれませんが、1950年代のアメリカのチャンピオンリングはまさにこのような「シグネットリング」か「カレッジリング」のタイプのものでした。
左画像は1953年のNYヤンキースのチャンピオンリングですが、形状は「カレッジリング」そのものです。
これは1993年のシカゴブルズのチャンピオンリングですが、まさにシグネットリングの面影です。
チャンピオンリングの歴史
まず、基礎知識として以下の歴史的流れをご説明致します。
カレッジリング・チャンピオンリングの源流は、欧州貴族が身に着けた紋章を彫刻した「シグネットリング」です。日本でもリングの形状の一種として「印台リング」と呼ばれるものです。
←はリングの両腕まで彫刻を施した豪華なシグネットリングです。このようにリングトップのみならず、両腕まで彫刻したシグネットリングがアメリカ型カレッジリングの原型です。
そのシグネットリングは、貴族階級制度を取らないアメリカ合衆国において作られる事は無かった訳ですが、1800年代後半にアメリカ陸軍士官学校(ウェストポイント)の卒業生達によって、「同窓の証し」として年号や名前が刻まれた「Class Ring」が作られたそうです。
ウェストポイントは、同期生のうちの1人は将来参謀総長になるというエリートコースです。つまり王族貴族制度の無いアメリカで、学歴エリート達がルーツである欧州のエリートに倣って指輪を作った訳です。
以下の画像は、1900年代前半の米陸軍士官学校のカレッジリングですが、欧州のシグネットリングに倣ったものであることが分かります。
現在もその伝統は続いています。以下のスナップは、米陸軍士官学校の卒業式後にお揃いのカレッジリングを着けて記念撮影の様子。
皆さんがよく目にする左画像のような大粒の楕円形ストーンの載ったカレッジリングは、実は人口宝石の技術が確立した1970年代後半以降のカレッジリングなのです。
カレッジリングの歴史の詳しくは以下をお読みください。
そしてその学歴エリートの象徴:カレッジリングをスポーツエリート(プロスポーツの優勝選手やコーチ陣)に置換したのが、チャンピオンリングです。そのチャンピオンリングが現在のようにダイヤなどの小粒石ギラギラの豪華版になったのは、実は1980-1990年代以降です。
チャンピオンリングの歴史について詳しくは、以下をお読みください。
さて、改めてこの毎日オリオンズのチャンピオンリングを分析します。
この毎日オリオンズのリングは、1950年当時のカレッジリング・チャンピオンリングのスタイルそのものなのです。中央のエンブレムが学校章(チームロゴ)、左右の腕脇に「19」と「50」と卒業年(優勝年)の典型的なデザインです。
1950年というと第2次世界大戦敗戦後まもなくでもあり、連合国占領軍が日本政府に施政を返還する1957年以前で、日本の産業全体が復興しておらず、「モノ不足」の時代でした。日本の宝飾産業が西洋の宝飾技術を取り入れて西洋風ジュエリーを生産しだしたのは1960年代以降ですので、このリングが日本で作られたものではなく、欧米、特にアメリカで作られたものであるとほぼ確定出来ます。
日本の宝飾業で歴史のある真珠で有名なM社さんは、戦前から真珠ジュエリーを生産していましたが、貴金属に真珠を組み合わせるのではなく、「連(れん)」と言われる真珠に糸を通したネックレスや数珠などが主流で、貴金属と真珠を組み合わせた「パールジュエリー」の登場はやはり1960年代からだと言われています。
他にも横浜の老舗ジュエラーS社さんは、1946年創業ですが、女性向けジュエリー専業で、シグネットリングやカレッジリングなど男性向け装身具を手掛け出したのは、2000年代以降です。
当時の資料(野球殿堂博物館の公開資料、Wikipdiaなどから)
ご存じの方も多いと思いますが、日本のプロ野球は戦前から存在し、100年を超える歴史があります。
以下、Wikidiaより
1920年:日本運動協会設立。日本のプロ野球の始まり。
1934年:大日本東京野球倶楽部(→東京巨人軍)が設立。1935年:大阪野球倶楽部(→大阪タイガース)が設立。1936年:大日本野球連盟名古屋協会(→名古屋軍)、東京野球協会(→東京セネタース)、「名古屋野球倶楽部(→名古屋金鯱軍)、大阪阪急野球協会(→阪急軍)、大日本野球連盟東京協会(→大東京軍)が発足。これらの球団と巨人・大阪により、2月5日、日本初のプロ野球リーグとして日本職業野球連盟設立。ペナントレース(公式戦)が始まり、日本における全国規模の社会人スポーツリーグ第1号となった。
第二次世界大戦による中止を挟んで、1949年日本野球連盟がセントラル・リーグとパシフィック・リーグに分裂し、両リーグを統括する日本野球機構(NPB)が発足。
セントラルは8球団、パシフィックは7球団体制。1949年9月、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、毎日オリオンズが結成された。
1950年:各リーグ優勝チームによる選手権試合日本ワールドシリーズ(1954年から「日本選手権シリーズ」)を開始。第1回優勝は毎日オリオンズ。
つまり、初の両リーグによる日本一決定戦に、設立直後の毎日オリオンズが優勝した訳です。
左画像は翌年1951年の第1回日本ワールドシリーズのチケットです。
当時のオリオンズの主力選手は、元大阪(阪神)タイガースの若林忠志・別当薫・土井垣武・本堂保次・呉昌征等とこのリングの所有者:片岡 博國選手(左画像)などでした。
【片岡博國選手プロフィール】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B2%A1%E5%8D%9A%E5%9C%8B
以下、野球殿堂博物館公開資料より
1950年の日本ワールドシリーズ後に、一種の「日本代表」として優勝した毎日オリオンズはじめパリーグ選手主体の選抜チーム渡布軍 が米ハワイに渡り、日米親善試合などを行ったそうです。
パリーグ選抜チーム渡布軍 ハワイ遠征写真(1951年2月11日から4月7日の約2か月間の遠征)【野球殿堂博物館記事】
左写真の赤枠囲みに注目!若林氏の指にリングがあります。
このハワイ遠征とチャンピオンリングには、毎日オリオンズの監督兼選手だった若林忠志氏がキーマンのようです。
毎日オリオンズ渡布軍を率いていた若林忠志 氏の紹介
【野球殿堂博物館記事】
https://x.com/BaseballHOF1959/status/1252406223447527425
【Wikipedia】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%9E%97%E5%BF%A0%E5%BF%97
若林 忠志(わかばやし ただし、本名:タダシ・ヘンリー・ワカバヤシ(Tadashi Henry Wakabayashi)は、ハワイ出身の日系2世で、20歳ころにはアメリカのAAAサンフランシスコ・シールズからの誘いもあったそうだが、日本に来日、法政大学に入学し、エースとして活躍。来日翌年には弱小チームだった法政大が東京六大学野球で初優勝。
卒業後、社会人野球で活動し、1936年に大阪(阪神)タイガースとプロ契約。当時の日本には無かった概念の「契約金1万円」を要求し、受け入れられたそうです。(戦前の1935年(昭和10年)の1万円は、現在価値に換算すると約3千万円) タイガースでは、年間20勝以上を6回達成し、幾度もMVPに選ばれるなどの大活躍。若林が18をつけてエースとして活躍したことで「エースナンバー=18」と言われるようになったそうです。
その若林は、1950年、チーム創設と同時に毎日オリオンズに移籍。選手兼監督として活躍。日本シリーズ最初の勝利投手となり、オリオンズの初優勝に貢献。
日本ワールドシリーズ優勝後に、その若林氏を中心にしたパリーグ選抜チーム渡布軍が、ハワイ遠征をした事は、プロ野球優勝チームの「ご褒美のハワイ旅行」の最前例でしょう。
片岡 博國選手ご遺族の証言
片岡博国氏は2003年3月17日、86歳の生涯を終えましたが、奥様が片岡氏の孫にあたる東京都西東京市の三浦氏が、片岡氏の遺品を整理し、関係各所に寄贈するなど、片岡氏の野球振興の遺志を継いでいます。
このリングはその三浦氏から鑑定依頼を受けたものです。
三浦氏によると、このリングは、1950年日本ワールドシリーズ後のハワイ遠征時に作られたのではないか・・・・・・・・という事ですが、三浦氏が毎日新聞社に問合せても、1950年当時のオリオンズの記事等はあれど、チャンピオンリングに関する資料は見つからなかったそうです。
また、やはりご遺品のハワイ遠征時の写真にも、片岡氏(一列右から3番目)の隣の本堂氏(一列右から2番目)の指にもリングが写っています。
推論
ハワイ出身の日系2世:若林氏主導の遠征チーム渡布軍がハワイに行き、数か月滞在し、ハワイの宝飾会社に依頼して、この毎日オリオンズのチャンピオンリングを有志(全員ではなく)で作ったのではないか?
1950年頃、既にアメリカ大リーグでは、チャンピオンリング(カレッジリングやシグネットリング型)の文化がありました。
それは、南洋真珠を模したこのリングのケース、そして当時の日本人男性としては珍しく指輪をしている若林氏(日系米国人なので当然か?)という状況証拠からです。
この時の渡布軍のメンバー有志(オリオンズの選手)がハワイでチャンピオンリングを作った時の事を知る人はいらっしゃいませんでしょうか?
もし、いらっしゃれば是非情報提供をお願い申し上げます。
文責:Philip Champion Ring and College Ring 代表取締役 渕上 祥司